楢林宗建種痘接種の図
楢林宗建種痘接種の図
シナには早く牛痘法が伝わった。英国の東インド会社の医官ピアソンが広東において種痘を始めたのが1805年であり、ほぼ同じころスペイン人がルソンからマカオによい痘苗をもたらした。スペイン政府は牛痘法の恩恵を広く天下に分かつために一隻の船に22人の子供を乗せ、若干の時日をおいて次々に牛痘を接種して新鮮な痘苗を続けつつ新旧の両世界をまわった。しかし鎖国の日本にはスペイン船は入ってこれないわけである。シナの人々は新しい種痘法を容易に受け入れなかったが、邱浩川という人が熱心に研究して広くその術を施すこと10余年のあと「引痘略」と題する本を出版した(1817)。この本の内容が日本で「引痘新法令書」という本になって紹介されたのが弘化3年(1846)である。

その年に福井藩医の笠原良策は幕府の力をもってシナから牛痘苗を輸入することを藩主の松平慶永(春嶽)に建言した。幕府はそれを容れて命令を長崎奉行に出したが、役所の仕事がてまどっているうちに嘉永元年(1848)6月、蘭医モーニッケ Otto Mohnike が痘苗を持ってきたので、シナに注文することは沙汰やみになった。モーニッケはそのとき聴診器を持って初めて日本に持ってきた。

ラエンネックがパリで聴診法を始めてから32年たっている。モーニッケが痘苗を持参したのは、その来朝の前年(1847)に佐賀藩主の鍋島閑叟が侍医の伊東玄朴から牛痘法のことを聞き、長崎に住む藩医の楢林宗建をしてオランダ商館長に牛痘苗取り寄せ方を依頼されたことの結果であった。ところが、モーニッケの持参した痘苗は接種してもつかず不成功に終わった。宗建はそこで痘漿ではなく痘痂(かさぶた)を送ってもらえばよい結果を得るのではないかとモーニッケに提案し、それが実行に移されてバタヴイアに注文した痘痂が嘉永2年(1849)7月に長崎についた。

7月17日に宗建の息子、建三郎の右腕に接種したのが善感、一同非常な喜びであった。引き続き長崎で多数の子供に植えられた。その8月には鍋島閑叟は宗建を佐賀に招いて自分の息子の淳一郎らに接種させた。かくして牛痘法は全国的に広がっていく。

……中略……

明治2年の初めに、佐賀藩の相良知安と福井藩の岩佐純の両名が医学取調御用掛りに任ぜられたが、それ以後日本の医学はドイツを師とする方向に大きく動いていく。知安を推したのは藩主の鍋島閑叟であり、純を推したのはやはり藩主の松平春嶽であるといわれ、ともに日本への牛痘法伝来に大きい役割をなしたことが注目される。

(佐賀県医師会編集:第66回九州医師会医学会プログラム−表紙絵説明−から)
{資料は、佐賀県立病院好生館蔵}
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