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2012年11月5日掲載

「朝、見かける訪問看護」


 朝、クリニックに向かう。今日も遅刻ギリギリ。いや、やはり少し遅れる。あと10分早く出ればいいのにと思いながら、アクセルを踏む。

 するとカーブの向こうにいた、いた。訪問看護ステーションの車がいつものように止まっている。いつも僕より早く、雨の日も晴れの日も止まっている。毎日ケアが必要な患者さんが住んでいるらしい。

 車の止め方が同じことなどから考えると、同じ看護師、それも師長クラスの看護師が回っているようだ。しかも早朝に定期的に訪問するということは慢性疾患でも特別な疾患、もしくはがんの末期なのだろうか。夜間にたまったたんを吸引しているのか。想像すると、患者さんの状況がいろいろ浮かんでいる。

 そもそも、訪問看護とは何をするのか、市民に知られているだろうか。

 患者さんに密着し、身体的なことはもちろん、メンタル面もケアする。体を拭いたり、点滴したり、リハビリを手伝ったり、相談を受けたり、家族と二人三脚でケアを提供する。場合によっては家族に対してもケアをする。それが訪問看護である。訪問看護師なしに在宅医療は機能しないと言っても過言ではない。

 それからどのぐらいたったか、ある朝、訪問看護の車がいつもの場所になかった。どうしたのだろう。看護師が風邪でもひいたかな。いやいや、それなら代わりの人が来るはずだが。

 そんな日がしばらく続いた。ということは、訪問看護が必要なくなったということか。

 訪問看護には医療サービス提供の終了というものがある。すなわち患者さんが亡くなったときである。そのとき、われわれは考える。どんな終了の仕方であったろうか。本人にとって安らかな最期であったろうか。そして、ご家族は十分な看護ができ、ほっとされているだろうか、と。

 人前をはばからず、または人知れず涙するご家族がいる一方、ニコニコしながら旅立ちを見送ることができる方々がいる。身内の死が悲しくないはずはない。それでも笑顔で送り出せるのはなぜか。

 療養期間を通じて、また、旅立ちの後も訪問し、家族を支えるのが訪問看護の仕事だ。

 きょうも私は急いでいる。また遅刻ギリギリ。カリカリしながら運転している。カーブを曲がると、あった、あった! 訪問看護の車だ。そうか。短期の入院かショートステイだったのか。再びいつものケアが始まったに違いない。

 患者の病状の変化、家族の心理状態などにも、いち早く対応してくれるのが訪問看護である。もう一度言おう。在宅医療は訪問看護師の存在なしにはあり得ない。

 看護師さんたち、どうぞ、頑張って。雨の日も晴れの日も患者さんは待っている。「おはようございます」というあなたの声をどれだけ心強く感じているか。

 私たち医師も応援している。GO GO 訪問看護師!


(長崎市宝町、長崎宝在宅医療クリニック 院長  松尾 誠司)

 

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