病気一口メモ

『尊厳死』

山住医院  山住 輝和



 友人から「母が食事をしなくなって衰弱が激しいから入院させてほしい」と頼まれた。病院に伺うと開口一番「”尊厳死”という言葉を知っていますか?私は”尊厳死協会”に入っています」と話された。やせて全身の関節痛が強かったが頭は明晰で、私どもの医院でこの世の最後を迎える覚悟だったようである。「痛みや苦しみを軽くするためにはできるだけの事をしますが、患者さんが望まれないことはしません」と説明して少量の輸液と鎮痛剤を用いることから治療を始めたが、私どもに出来たのはひたすら患者さんの話を聞くことだけだった。 幸い小康を得て退院されたが、まもなく容態が悪くなり長崎の病院で息を引き取られ、遺言でご遺体は医学部に「献体」された。
  10年程前、川崎市の病院で「気管支喘息の発作で運び込まれた患者が植物状態になったため、主治医が家族の目の前で気管内チューブを抜き取ったうえ、筋弛緩剤を投与し死亡させた」という事件があった。「終末医療のあり方」を考えさせられる事件でもあった。日本では『安楽死』は医療行為として認められていない。しかし@耐え難い苦痛があるA死期が迫っているB苦痛を緩和する方法がないC患者本人の意思が明らかである…の四条件が満たされた場合は例外的に容認されると判断なされるようになった。
  「終末期医療のあり方」が考え直されようとしている。そう言えば、私が子供の頃は多くの人が自宅で家族に見守られながらこの世の最後を迎えることが多かった。本人と家族が望むのであれば、”かかりつけ医”は”介護スタッフ”とも協力しながら「在宅での看取り」の為に最大限の努力をするべきであろう。大切なのは『患者本人の意思の確認』である。川崎市の病院の事件では「本人もしくは家族の意思が十分に確認されたか」ということが問われた。「自分の死」を話題にする人は少ないが、どんなに元気な人でも「死」を免れることは出来ない。そうであれば、人生のある時期「自分の死(この世の終わり)」について考え、その時のために備えをしておくことも大切ではないかと考えている。残念ながら「死生学(死への準備教育)」は日本の医学部の必修科目にはなっていない。
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